「10年前からの旅〜シベリアへ〜」
これは、「シベリアの聖なる瞳」と謳われる、バイカル湖の写真だ。
ちょうど10年前の1991年夏(7.31〜8.9)、僕は金沢市少年親善使節団の一員として、ソヴィエト社会主義共和国連邦、シベリアの中心・イルクーツク市(金沢市とは姉妹都市締結をしている)を訪れた。イルクーツクはバイカル湖のほとりの街である。
これが、僕にとって最初の海外旅行となった。しかも訪れた国が、ゴルバチョフのペレストロイカによって変化しつつあったとはいえ、共産主義国家(勿論、当時小学校6年生だった僕には、国家体制が何であれ関係はなかったのだが…)。考えてみると、そこで感じたことや体験が、その後の僕の人生における価値観の形成に、大きく影響しているような気がする。
少年の僕達にとって、国家体制も、イデオロギーも、経済状況も関係なかった。少年と少年のふれあいに国境なんてなかった。今、振り返ってみてもそう思う。
確かに当時のソ連の経済状況は悪かった。物不足だったことも確かだ(実際、店に品物が並んでいなかった。)。だからといって、それが心と心のふれあいにとって、障害となっただろうか?
屈託のない少年の瞳とキラキラ輝く少年の瞳が、手をとり合い、身振り手振りで意思疎通をしながら、矛盾なくつながっていく…。そんな光景が、実体験として心に染みついている。だからこそ、「平和は来るさ。」と、まるで疑いもなくいえてしまうし、それがあたりまえにハッピーなことだと思う。
僕達は一週間、ピオニールキャンプという、子供達が泊り込みで夏を過ごす宿泊施設(夏季学校みたいなもの)で、ソ連の子供達と共に生活をした。洋式便器なのに便座がなかったり(中腰で?…)、廊下には強い香辛料の匂いがたちこめたり、そんなこともあったけど、すごく楽しかった。夜にはディスコなんてものもあった。日本で小学生がディスコで踊るってことある?フォークダンスも中学校からでしょ?(ちなみにこのとき手をつないで踊った、シベリアの青い瞳に恋をしてしまった想い出まである(笑)。)
さて、そんな旅行の中で大きな出会いがあった。一泊だけだったけれど、ホームステイをさせていただく機会に恵まれた。そして、オレグという僕より二つ上の少年に出会う。
ロシア人は、一度親しくなると、日本人以上にあつくもてなしてくれる。オレグの家族もそんな人たちだ。帰国後、文通が始まった。そして、現在に至る。
その間、僕が高校3年生の時、オレグとお姉さんのスヴェタは、一度金沢を訪れてくれた。1997年夏のことである。たった、一週間の滞在ではあったけど、新潟空港で彼らと別れる時、泣きながら抱き合ったことを覚えている。
それから4年、僕がソ連を訪れてからちょうど10年。2001年、21世紀最初の今年、再びイルクーツクを訪問する。海を越えた親友との再会。10年ぶりの温かい家族との再会。そして、今回は一人旅…。
僕達が日本に帰国した一週間後、ソ連・モスクワで、保守派によるクーデターが起きた。そして1991年末、社会主義の超大国・ソ連邦が崩壊した。冷戦終結。
現在はロシア連邦という国だ。
社会主義が終わりを告げ、資本主義の国として動き出して約10年。何が変わっただろうか?暮らしは?貧富の差は?そして人々は?…
シベリアの広大なタイガに囲まれて、どこまでも美しく包容力のあるバイカルの波の音を聴き、「そんなたわいのないことなど、どうでもいいじゃないか。」そう思うかもしれない。それはそれでいい。
ふと、ソ連から帰ってきて考えたことを思い出した。
「世界中の国に友達を創ればいい。そうすれば、その国と戦争はしなくなる。そして、世界中が戦争なんてしなくなる。」
あと2週間と少しで旅に出る。
2001年7月13日 松田
亜世
↑ピオニールキャンプ「青いもみの木」にて。
©2001 Asei Matsuda