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30歳の得度

−いのちの唄−









 お堂の扉が閉め切られ、暗闇の中仄かに朱色の蝋燭の光だけが揺れていた京都・東本願寺阿弥陀堂。


 得度式。


 2009年6月7日、静まりかえった朝のお堂の空気の中、ご門首の剃刀により“勝他、利養、名聞”(競争心、利欲をむさぼって自分の身を肥やすこと、名誉や地位を欲しがる心)という“みつのもとどり”を切って求道者としての新しい人生を歩み出した。

 僧侶・釈亜世誕生の瞬間であった。



京都・真宗本廟(東本願寺)に到着。

 2009年6月5日、30歳の誕生日を迎えたその翌日の6月6日、僕は京都駅に降り立った。向かった先は東本願寺(正式には真宗本廟)。

剃髪前の不安げな表情
バリカンで一気に!
キレイな坊主頭の完成!!

 まずは翌日の得度式に臨む為、お寺にある理容室で髪を剃る。高校時代から殆ど変わることなかった長い髪に別れを告げた。バリカンで一気に丸坊主、さらにカミソリで剃髪する。中学時代には髪を伸ばしたことが問題となり、職員室で先生とじっく〜り(苦笑)、話し合ったこともある。その時のことを作文にして、「私の主張」という主張大会で学校の代表となったのも今じゃちょっと顔を赤らめてしまうような懐かしい思い出。以来こだわり続けた髪型でもあったのだが、その髪を切る。30歳、新たな人生のはじまりの象徴でもあった。



 お釈迦さんが出家したのが29歳の時。そしてまた浄土真宗の宗祖・親鸞聖人が六角堂に百日参籠し、法然上人の説いた“南無阿弥陀仏”の教えに帰依することになったのも29歳。そんな意味深い29歳という年齢での得度は叶わなかったが、30歳の節目に“南無阿弥陀仏”の世界に身を置くことになった。在家から飛び込んだ仏の道。


 昔から仏教には強く惹かれていたし、お坊さんにも興味があった。大学時代は曹洞禅に親しんだり(福沢諭吉がつくったという歴史ある慶應義塾大学仏教青年会に所属)、趣味としてのお寺巡りや仏像鑑賞と併せて仏教関係の本も好んで読んだ。当初は禅や真言密教に強く惹かれていたのだが、次第に浄土真宗の教えに傾いていった。そんな僕に金沢のお寺の友人が、得度を勧めてくれた。これもまたご縁。

 この友人とは高校時代に通った英会話教室(当時ファンだった高橋由美子がCMをやっているからという思春期ならではの真っ直ぐながらも何とも不純な動機で通い始めた(笑)。ある意味、高橋由美子が結んだ縁?)以来の付き合い。

 まずは毎年お盆のお手伝いからということで、この夏のお盆から、墓前で読経をしたりといった、いわゆる僧侶らしいこともさせて頂く。

 お寺に生まれた訳ではないし、親戚がお寺という訳でもない僧侶・釈亜世。友人曰く「珍しい存在」らしい(笑)。

 宗派は真宗大谷派(浄土真宗のいわゆる”お東”)。



 その宗祖・親鸞聖人という人は、非常にロックな宗教家だと思う。


得度後訪れた六角堂。
生け花の池坊発祥の地でもある。

 自らの愛欲に苦しみ、百日参籠した聖徳太子建立の京都・六角堂。その時、六角堂の本尊・救世観音の「おまえの業が深くてどうしても女性が必要だとするならば、私が女身となってお前に犯され、一生の間おまえの人生を立派にして、臨終の時には極楽浄土に往生させてやろう」という声を聴き、親鸞聖人は公然妻帯に踏み切る。

 この時代の比叡山を中心とする日本の仏教界では、僧は表向きは戒を守り、裏では密かに妻を持つという状況が往々にしてあったらしい。そのような時代の中、親鸞聖人は悩みに悩み抜いて、罪悪深重の人間の業の肯定を自らやってのける。


 さらに、法然上人らと共に流罪となった建永の法難(法然の弟子の何人かは死罪になっている)。この時還俗させられた親鸞聖人は、この処分に対し、後鳥羽上皇はじめ御上への痛烈なる批判をも込めて自ら愚禿(ぐとく)親鸞と名乗ったのだ。愚禿とは、愚かな禿(かむろ=ハゲ)、即ち僧でもなく俗でもない愚かなヤクザ坊主というような意味らしい。その反骨精神たるや凄まじい。主著の『教行信証』の中でもこの時の権力を激しく批判している。このあたり、何ともロックだ。

 愚禿と名乗った親鸞聖人が僕は大好きなのだ。


 どんなことがあろうとも、決してぶれなかった人なのだと思う。自分自身の内面にまっすぐ向き合い、自らの思想を自ら実践していった。こんな言葉は軽く響いてしまうのかもしれないが、一言で言い表すと“カッコいい”のである。(余談ではあるが、京都に向かう新幹線の中、忌野清志郎さんの著書『瀕死の助六問屋』を読んでいた。清志郎さんの生き方、その反骨精神、どこか親鸞聖人に重なる気がしてならなかった。ロックとは偉大なり。)



法名と度牒を受け取る。

 得度して戴いた法名は釈亜世。

 法名とは、仏弟子になったことの名乗りである。法名は、お経の中からその文字が選ばれることが多いのだが、僕の場合は本名と同じ“亜世”という二文字を頂いた。親鸞聖人の非僧非俗の精神からすると、かえって重い意味をなす気もして、身が引き締まる想いであった。

 強烈なる自己批判の上に立って、これからの人生、言うなれば愚禿亜世と自らをその罪悪も含めてまっすぐ見つめることが出来るかどうかということである。



 さて、得度に至った自身の原体験について少し触れておきたい。

 まずひとつは小さい頃から親しんだ真宗王国石川県での実体験。今は亡き母方の祖父の膝の上でお経を聴いたり、ご坊さん(お坊さんのことを“ゴボサン”と石川県の方言では言う。)の月参りが楽しみであったりした幼年時代。見様見真似でお経を上げていたこともあった。大谷派独特の和讃(七五調の和語で綴られたいわば仏教歌謡)の節回しがとても好きだった。

 さらに大きかったのは、高校卒業の年の大好きだった祖父の死。

 愛する人と別れなければならぬ苦しみのことを愛別離苦(あいべつりく)と仏教の世界では呼ぶが、こうして人間の死を真っ正面から見つめることにより、やはり自分の中の「人間はどこからきてどこへ向かってゆくのか・・・。」という宗教的好奇心はより深くなった。

 殊にお通夜の席で拝読された有名な『白骨のお文』(蓮如上人著)は強烈な勢いで心に突き刺さった。




「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。

 されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。

 一生すぎやすし。

 いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。

 我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。

 されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。

 すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。

 さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。

 あわれというも中々おろかなり。

 されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。

 あなかしこ、あなかしこ。」

 浄衣を身にまとい得度式に向かうところ。
 この時点では、まだ僧侶ではない。この後、阿弥陀堂での剃刀の儀を経て晴れて僧侶となり、袈裟を身に着けることが出来る。

(『白骨のお文』)





 人間ならば平等に、誰しもにいずれ必ず訪れる“死”という瞬間。

 お釈迦さんが出家を決意した時の説話「四門出遊」においても描かれる生老病死という人間の4つの苦しみ。そこには、人間は死すべき存在であることを自覚し、人生の終着点から今を見つめ直すという仏教の根本的な考え方がある。これを見事に表現した名文『白骨のお文』。何度読み返しても心が震える。


 いずれの日にか必ず訪れる自らの死を自覚した時、“南無阿弥陀仏”の信心は向う側からやってくる。そしてそれは、“日々を生きる喜び”となり、感謝の念仏になるのだと思う。「生まれてよかった。このいのち与えて下さってありがとう。」と・・・。死の自覚は生きる力へと向かうのではないだろうか。


 余談になるが、最近想うことは、死の無自覚が昨今の凶悪犯罪であり、自殺の増加にすら繋がっているような気がしてならない。セレモニーと化した葬式、ホテルのような葬儀場であり火葬場で、どんどんと人の死が遠くにいってしまっている現状は、憂慮すべき事態なのではないだろうか。「死んだらどうなると思う?」との問いに「生き返る。」と、まるでゲームがリセットされるかのように死を捉えた子どものインタビューを聞いた時には愕然とした。

 3世代が同じ屋根の下に暮らし、最期の瞬間まで家族が看取るということもなかなかなくなってきた現代、“いのち”について学ぶ場所がない。



 「死んだらどうなるのか?」宗教に課せられた大きな大命題。

 浄土真宗は、往相回向(おうそうえこう)と還相回向(げんそうえこう)という二種の回向(称名念仏の功徳をめぐらして衆生の極楽往生に資すること。)を説く。

 往相回向とは、念仏を称えれば必ず浄土に往生できるという“往きの回向”。そして還相回向とは、阿弥陀仏の働きによって浄土に迎えられ、浄土に往生した後、現世で苦しむ人々を救わんが為、再びこの世に還ってきて衆生を救済するという“還りの回向”という思想である。


「浄土に往生して、再びこの世に還ってくる」、この永遠なる”いのち“の循環に阿弥陀仏を感じる。


 僕が浄土真宗の思想に傾倒するにあたって、大きく影響を受けた哲学者・梅原猛さんは「還相回向の利他の心こそ、大乗仏教としての浄土教の核心である。」と説いている。




 2009年4月、アルバム『おかえり』という作品が生まれた。

 そのこともまた、得度への決意を一層強くした出来事であった。得度考査(得度の為の読経の試験)を受けたのは、金沢でのアルバム発売記念ライブを終えたその直後。


 “おかえり”という響き、当初は単に故郷をイメージしたタイトルだった。“ふるさと”とは安らげる場所、還るべき場所。しかし反対に、“ふるさと”であるが故の厄介さ、一歩間違えれば憎悪の対象にすらなり得る場所、それが“ふるさと”。そんな“ふるさと”に様々な想いを抱く人たちの心を解きほぐす「おかえり」という温かい響き。その響きは次第に“いのちの唄”をアルバムの中に吸い集めた。


 いのち還る場所、此処へ「おかえり」なのではないか、そう思うようになった。幾多の巡る季節を巡り巡って今此処へと還ってきた。


 僕らはその“いのち”の循環(科学的にみても僕らの遺伝子は遠い祖先から脈々と受け継がれているものであるし、それは「生存せよ」との“いのちの唄”ではないかと思う。)の中で、確かに今ここに生きている。僕らに続く血の流れをほんの一瞬想像することから、“いのち”について考えてみませんか。僕は『盂蘭盆会』(アルバム「おかえり」収録)にそのことを書いた。


 そして僕らはまた次の世代へといのちのバトンを渡しながら、僕らの“いのち”は再びこの世に還ってくる・・・と信じたい。


 話は少々飛躍するかもしれないが、“いのち”の循環をほんの少しでも感じさえすれば、命の大切さを実感することはもちろん、遠く時代を超え世代を超えた「みんなの地球」であることも容易に理解でき、今まさに危機的状況である環境問題への取り組みの糸口にもなり得るのではないだろうか。



 僕らの足下を常に照らしてくれるのは、大宇宙から脈々と続く“いのち”なのではないだろうか。

 “いのち”ばかりは自分の力ではどうにもならない。

 あなたまかせのいのちだから、僕らの“いのち”にありがとう。その心、南無阿弥陀仏。



 さぁ、これからも“いのちの唄”を歌いたい。




合掌

2009年6月

亜世ハンコ

<あとがき>

 僧侶になったということは、松田亜世のごく個人的な出来事にすぎません。とはいえ、松田亜世の人生にとって大きな転換点であることも確かなので、どのような気持ちで得度に至ったのか、この場に記しておくことが大切だと考えました。

 松田亜世の活動がこれまでと大きく異なったり、ライブの演目が歌ではなくお経になったり、後光が差したり、そういうことはありません(笑)。


 あくまでも松田亜世は、松田亜世としてこれからも歌い続けて生きます。







©2009 Asei Matsuda



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