タイトル 作詩/作曲 完成日 初演日
「青の時代」 松田 亜世 2000.6.26 2000.7.12

 「10代の思いを歌っていこう。」そう思ってできた曲だ。
 21歳を迎えた今、今一度自分がギターを持ったあの10代に感じたことを歌にしたい。そう思ったんだ。この歌を書いたとき、精神的にはかなりきついことが起きていた。そこから自分が立ち直るきっかけになったのもこの歌だったりするんだ。
 何かと少年犯罪等々が話題になっている今、10代をテーマにしなくてはいけないという義務感にもかられた。ただ、上からではなく同じ視点に立ってね。そこが難しいことでもあるんだけれど・・・。これをやらなくちゃ意味がないことだもんね。
 僕が生まれてはじめて髪を染めてみたのも、このこととつながってくるんだけどね(笑)。
 この曲がきっかけになって、これから歌うべき自分のテーマってものが、はっきり見えてきたような気がしてる。

              * 松田亜世3rdデモテープ「青の時代」にLIVE音源収録 *

「アメ玉」 松田 亜世 1999.2.1 1999.2.8

 世紀末、それを予感させるかのような神戸のサカキバラ事件をはじめとする少年犯罪。
 「透明な存在」
 その言葉からこの唄は生まれた。僕たちと世代的に大差のない彼らの言葉、衝撃的だった。この時代から逃げ出したい衝動にもかられた。
 時々、昔に還りたいと思うことがある。僕らが生まれる前の、貧しくも心豊かな時代。単なるノスタルジーだろうか?それは、一方的な憧れでしかないかもしれない。そして、逃げかもしれない。
 それでも僕は、あたりまえの人間でありつづけたいだけなのだ。

                          * 松田亜世自主制作CD「いつの日か」収録曲 *

「荒れ地の果てに」 松田 亜世 1994.11.20 1995.11.19

 この曲は、終戦後50年が経とうとしていた1994年にできた。まだ僕は中学3年生だった。中学生の頃から、ボブ・ディランやB.スプリングスティーン、ジョン・レノンなどを聴いていた僕は、戦争と平和から無関心であることができなかったのであろう。中学生なりにではあったけれど・・・。
 この国が歩んだ戦争の歴史、そして遠のいてゆくその記憶・・・。憲法9条の理想と、日米安保、自衛隊の矛盾。そして、戦後復興から発展に向かった戦後日本の歴史。
 中学生だった僕には純粋に映った。いや、今でも僕はこのことをまっすぐ考えてる。戦争で苦しむのは、我々市民であり、弱者であり、強者である権力者はその血すら流さない。そう、「傷つくのは、決まってあんたじゃないのだ!」

 追記・・・この曲は、僕が高校1年の時、初めて「ライブハウス」という場所で歌った2曲のうちの一曲である。思い出すと想い出深い。

                       * 松田亜世自主制作CD「白鳩」収録曲 *

「1998」 松田 亜世 1998.6.23 1998.7.19

 1998年。そう、俺が東京に出てきた年だ。
 2001年を迎えた今となっては、何やら昔のような気がするが、「世紀末」という時代に、新世紀への期待というよりは不安の方が大きかったように思う。暗いニュースがやけに重く響いていた。
 俺、18歳。「希望を持て」といわれても、何かがシラケていた。そんな世代に生まれたのかもしれない。悲しいかな、しかし今ここに生まれ、生きている。すべてが飽和状態だ。そこからどうして自分の居場所を意味付けるか。例え意味などなくとも、せめて前を向いていたかった。
 「壊せ!」
 誤解を恐れずに言うと、それが18歳の俺の答えだったのかもしれない。

                         * 松田亜世自主制作CD「いつの日か」収録曲 *

「一期一会」 松田 亜世 2004. 5.18改作(1997. 2.23原作) 2004. 6.15

 ”一期一会”・・・生涯にただ一度まみえること。一生に一度限りであること。
 と、広辞苑にはある。ご承知のとおり茶会の心得から出来た言葉だ。考えてみると歌うこともまさしく一期一会。その時を共有し、その時の声、空気、聴き手の想い、歌い手の心持ち、全てが二度とない組み合わせでの出会いである。この歌の原作を書いたのが高校2年生当時。記憶は定かではないけれど、漠然とそんなことを考えていたかどうか・・・。
 まだまだ青臭く照れ臭く、しばらくこの歌を歌わない日が続いたが、ある時振り返って少し書き直して出来上がったのがこの歌だ。

 一期一会の出会いと別れ、刹那刹那の感情の起伏はあるだろう。しかし、どこかの瞬間で”生まれてよかった”と思える、そんな命でありたい。(2007.2.4記)

                   * 松田亜世ミニアルバム「がんばるまっし」[2007.3.14発売]収録曲 *

「いつかの空」 松田 亜世 2001.9.11 2001.9.13

 2001年9月11日早朝、この唄は完成した。あの恐怖のテロ事件のほんの十数時間前である。
 奇しくもこの日、穏やかな自然の中での平和を歌ったこの曲が完成した。冷静に思い返すとなんと意味深いことだろう。

 2001年夏、一人訪れたモンゴルでの想い出からこの唄は生まれた。遊牧民のゲルに泊まり、子供と戯れ、限りなく続く草原のど真ん中で馬に乗った。遊牧民の素朴な暮らしに、心豊かな「生」を感じた。現代社会の抱える、金銭に塗れた醜さとはかけ離れた、自然をおなかいっぱい吸い込んだ。
 そしたらあたりまえのことをあたりまえに受け入れられた気がした。それは、君も僕も同じ空の下に生きているということだった。
 地球の裏側も、そして現在から過去・未来まで、僕たちはこの大空に包まれて時を刻んでいると考えると、とっても優しくなれるんだ。

「いつの日か」 松田 亜世 2001.6.15 2001.6.24

 ”Love&Peace”を歌いたい。そう思っている。
 ダライ・ラマを尊敬するし、ガンジーやキング牧師に感動した。そして、ジョン・レノンが好きだ。非暴力思想には、強く共感を持っている。世界の「平和」は訪れるべきだと本気で思ってる。そのために何かがしたい。そう、歌いたい。

 ”Love&Peace”を口にする時、ある種の人からはこう問い掛けられる。
 「もし、あなたの最愛の人が目の前で殺されたら?」

 正直、その時、自分の中に起こるであろう、怒りや憎しみは否定できない。自分の弱さを痛感する。考えてみれば、戦争とは、この憎しみが憎しみを生んできた結果の産物だ。
 そんな人間だけど、考えてみた。でもやっぱり「平和」がいいに決まってる。それがシンプルな答えだ。大きな矛盾に遮られてはいるけれど、そこで諦めるのかい?

 そしてこの歌が生まれた。
 そう、〜僕にできることは君の手を握ることだけ〜。
 それでもいい。希望を失っちゃいけない。そこから何かが生まれるんだから・・・。

                          * 松田亜世自主制作CD「いつの日か」収録曲 *

「古の海より」 松田 亜世 2006. 7. 4 2006. 7.15

 加賀百万石江戸時代の文化の香りなら、能登には太古の息吹を感じる。実際、古くからの大陸との海の玄関、それが能登だった。
 2006年3月、久しぶりに能登を車で一周する機会があった。能登という土地から感じられる、深さ、優しさ、そして力強さを改めて実感した。
 能登半島の海っ縁に立ち、日本海を見つめていると、太古の交易の音が潮風に雑じって聴こえてくる、そんな錯覚に陥る事がある。大いなる海、豊かなる大地、そしてそこに生きる人々。

 能登の夏祭りにその鼓動は最高潮に達する。時代を超え、世代を超え、人々の心の底から湧き上がる血潮。えもいわれぬ感動を覚える。大いなる時間の流れに人は自らをゆだね、そしてまた自らを探す旅をする。
 やがて人は揺るぎない自己を再発見する。(2007.2.4記)


<曲中の石川弁解説>
「おんぼらっと」(のんびりと、ゆっくりと)

「サカサイト サカサッサイト」(能登七尾石崎奉灯祭のキリコを担ぐ掛け声)


                   * 松田亜世ミニアルバム「がんばるまっし」[2007.3.14発売]収録曲 *

「祈りの少女」 松田 亜世 2003.12.19 2003.12.22

 1945年までのこの国ではよく耳にしたであろう話。「戦争」によって恋が、そして愛が引き裂かれる悲しき唄。
 イラクへの自衛隊派兵が決まった。派遣される部隊のある基地の周辺では、様々なドラマが展開する。自衛隊員を恋人にもつ少女の物語が新聞に取り上げられていた。そこから生まれたのがこの歌だ。
 ベトナム戦争時のアメリカや、両大戦時の日本や、その他の国々。これまで映画でしか見えて来なかった世界が、今まさに僕たちの国でも起こっている。
 「戦争を二度と繰り返してはならない。」
 そう誓ったこの国の50年間が、今問われている。

 この国の戦争を知る世代が少なくなり、僕たち戦争を知らない時代に生まれた者たちが社会の主流となっている。この歌を、その二つの世代を繋げるものとして歌っていきたい。
 雪の中を必死に祈る少女の吐息、そこに僕は魂を込めて歌いたいと思っている。

「海の唄」 松田 亜世 1999.12.3 1999.12.31

 「この曲は21世紀のテーマだ。」この曲ができた時にそう思った。何年か前から、「母性」の大切さを考えていた。何かの本で(確か、湯川れいこさんだったと思う。)、「20世紀は開発と破壊の世紀だった。そして、21世紀は母性の重要性がクローズアップするだろう。」と書かれていて、すこぶる納得した記憶がある。
 先日の、ヒロシマの旅でも再確認したのだが、「平和」を守っているのは常に女性だったということ。20世紀、戦争は男のたわいないお遊びだった。そして、21世紀、真の平和を創っていくために、いま一度「母性」の重要性を見つめてはみないか?男の人も、ふたたび「母性」という名の胸元へ還りませんか?
 戦争だけではない。開発という名の破壊が、これでもかというばかりに環境を壊し、挙句の果てには人間性すら危うい状況である。いま一度考えてみましょう。
 「母性」、誰もが懐かしいにおい・・・。

 今現在(2000.3)、僕のライブでの、この曲のもつ意味は大きいと考えています。僕自身、もっとも大切にしたい曲の一つなのです。ライブのたびに、みなさまからのこの曲に対するあたたかい声をいただいています。このことは、僕にとっての貴重な財産です。
 これからも大切にしていきたいと思っています。

              * 松田亜世3rdデモテープ「青の時代」にLIVE音源収録 *

「おかえり」 松田 亜世 2004.3.28 2004.4.15

 「おかえり」
 この日本語に、限りない優しさと包み込まれる愛情を感じる。辛いとき、悲しいとき、負けそうなとき、立てないとき、負けたとき・・・、どれだけこの言葉に癒されることだろうか。
 人間にとって「故郷」という響き、愛や恋、夢などと同列に故郷への想いは、国境を越える。人間共通の感情とも言えるのではないか。だから僕はこれを今後もテーマにして唄って生きたい。

 僕の本籍地・親父の実家は「石川県石川郡美川町字湊町」。石川の地名の由来ともなった、石の川・手取川河口の漁師町だ。
 手取川には毎年鮭が行き交う。何年もの旅の果て、子どもを生む為だけにこの川に還ってくる。そして新たな命を生み落として自らの命を終える。この壮大な大自然のドラマ、久しぶりに何ものかに書かされた。書かずにはいられない、弾き出されたような感覚、ほんの数時間で書き上げた。書きながら「故郷」ということはもちろん、「生命(いのち)」ということも考えた。

 「おかえり」
 なんとも美しい日本語のひとつだと思う。

「女の子」 松田 亜世 1998.10.30 1998.12.6

 この曲は、ずっと歌い続けている曲の一つです。この曲を創ったきっかけは、詩人の田村隆一さんのエッセイ・「女神礼賛」を読んだことです。その最後の言葉、「女性こそ平和のシンボルである。なにせ、戦争ごっこは若き奴隷の最も重要な労働なのだから。」とありました。これは、のちの「海の唄」にも続いてゆくものでした。
 「日本的な男の古い考え方だ!」とこの曲は何度かお叱りを受けました。しかし僕がこの曲で歌いたかったことは、女性はもちろんのこと、その奥にある「母性」なのです。

 戦後最大の詩人といわれる田村隆一氏は、1998年に他界されました。その生き方、モノの見方に惚れていた僕にとって、それは残念なニュースでした。この歌は、ミスター田村氏に捧げる意味でもこれからも歌っていきたいと思っています。

©2000-2007 Asei Matsuda