タイトル 作詩/作曲 完成日 初演日
「がんばるまっし」 松田 亜世 2003. 5.16 2003. 6.24

 東京に出てきてから5回目の春。学生生活も終わりを告げ、この歌を書いた時の僕は、流されるがままに千葉にいた。「俺は、『東京』に出てきた筈だ。」との想いと現実との葛藤の日々。そこに浮かんだのは紛れもなく生まれ、そして18年間の青春という時代を過ごした故郷・金沢の日々だった。
 そしてまた、故郷を離れた月日が長くなる度に「俺のふるさと」という意識が強くなる。殊に人生に負けそうな心境だったのかもしれない。
 「ふるさとの言葉で歌を書こう。」ふとそう思い立った。

 「東京」で認知されている標準語以外の言葉といえば、関西弁と博多弁位だろう。それもなんだか悔しくて、どうしても歌にしたくなった。生まれ育った土地の言葉は、自分にとっての素っ裸の言葉。反面恥ずかしさもないではなかったが、自らの心境を包み隠さず語れる言葉でもある。
 例えば、「(壁にかかられた絵等が)傾いている」ことを金沢弁では「傾がっとる」という。あるいは「(病気などで)辛い?」と聞くのを金沢弁では「エライけ?」とか「ヒドイけ?」と聞く。僕らにとっては決して傾くではなく、傾がる。辛いではなく、エライとかヒドイというニュアンス。生まれ育ってきたのだから、その過程で身に染みついてきた言葉とそのニュアンスが一番しっくりときたりする。
 『がんばるまっし』に描いた言葉は僕自身の素っ裸の言葉。この解説を書いている時点で、もうすでに2年近く歌っていることになるのだが、「東京」でこの歌が受け入れられていることが何よりも嬉しい。調子に乗って『ぼた雪の降る街』という金沢弁第二弾の歌も書いてしまったのだから(笑)。

 いづれにしても、故郷からの「元気でおるかいね?」という電話口の言葉はいつ聞いても嬉しいものだ。その言葉を胸に、僕ら故郷を離れた人間は、その土地土地で故郷を胸に抱いてがんばらねばならないと思うのだ。


<曲中の金沢弁解説>
「〜まっし」(〜なさい)/「〜じ」(〜ね)/「がんこ」(大そう、とっても、大げさ)/「〜わいね、〜ぞいね」(〜ですね)/「まんで」(とても)/「だら」(馬鹿)/「〜がや」(〜なのです)/「がっぱになる」(我武者羅になる、必死になる)


                    * 松田亜世自主制作CD「Acoustic Live 第一集」収録曲 *
                    * 松田亜世ミニアルバム「がんばるまっし」[2007.3.14発売]収録曲 *

「廓唄」 松田 亜世 2006. 2. 6 2006. 2.15

 金沢の”ひがし”、”主計(かぞえ)”の花街を舞台にした唄だ。映画『SAYURI』を観て、どうしても自分の手で花街を描いてみたくなった。故郷を離れて気付いた故郷・金沢の文化の豊かさ。故郷でごく自然だったものが、外に出てみると実はとてつもなく貴重なものであったりする、そんなことが普通におこる街が金沢である。ひとつ路地を入れば、三味線の音が日常の中に聴こえる、そんな街に生まれ育ったから、映画にも違和感を抱かざるを得なかったし、作品は作品として、それとは別に自らの感じた廓の世界を歌に描きたかった。

 この歌を書くにあたって、金沢の作家・井上雪さんの『廓のおんな』からインスピレーションを得た。実際にひがしの芸妓さんに取材をされて小説に書き上げられている。そこに描かれた女川・浅野川の情景が目に浮かぶように美しかった。そしてにび色の空、春を待つ「たあぼ」と呼ばれる見習い芸者の後姿が心に映った。そしてこの唄は生まれたのだ。

 日本の奥深い文化は、もう一度日本人自らの手で描いていかなければいけないのではないかと思う。”金澤”という特異な世界に生まれたものとして、歌って生きたいことがまだまだ沢山ある。(2007.2.4記)


<廓唄をより理解する為の金沢花街ミニ講座>
・・・金沢には”ひがし”、”にし”、”主計(かぞえ)”の3つのお茶屋街(花街)が現存する。

◎ 暗がり坂:尾張町(商人が沢山住んだ町。前田利家に伴って尾張の国から出てきた商人が集まったのが町名の由来)の旦那衆が、主計の花街に遊びに行く時に利用した近道。神社の境内から花街に続くというコントラストも魅力的。泉鏡花の生家に近い。

◎ た あ ぼ:10歳前後の見習い芸者。

◎ 女  川:金沢には“男川”と称される犀川と、“女川”と称される浅野川がある。前述の”ひがし”と”主計”の2つのお茶屋街は浅野川沿いに、”にし”は犀川の近くにある。金沢は文学の町でもあるが、女川のほとりには泉鏡花、徳田秋声が生まれ、男川のほとりに室生犀星が生まれ(泉鏡花、徳田秋声、室生犀星をして“金沢の三文豪“と称する)、島田清次郎、中原中也らも一時過ごした。ちなみに、松田亜世は男川・犀川のほとり、室生犀星の生家の程近くに生まれ育った。



                   * 松田亜世ミニアルバム「がんばるまっし」[2007.3.14発売]収録曲 *

「荒野を越えて」 松田 亜世 2001. 5.15 2001. 5.26

 20世紀は、戦争の世紀であったとともに、難民の世紀でもあった。ロシア革命のロシア難民に始まり、ナチスによるユダヤ難民(これは後にパレスチナ問題に発展する)、ベトナム戦争によるベトナム難民、カンボジア内戦によるカンボジア難民など。それに加え、自由を求めた、ユーゴスラビアの難民など。
 愛するものを目の前で殺され、自分の生まれた土地を捨て、見つかれば命がないという状況、それに究極の餓えに苦しみながら・・・。
 もう、言葉がない。

 ただ一つ、21世紀新たな価値観を見つけ出す、いや、答えは実にシンプルだ。そこに向かっていかねばならない。
 流行語のような「グローバリズム」じゃなく、本当の意味での「世界」を。
 20世紀、あまりにも多くの血が流れすぎた。憎しみが憎しみを生むという、悪循環は明日も続くのか?平和ボケしちゃいけない。わずか50数年前には、僕達も加害者であり、被害者であった。

 そんな、ささやきの唄だ。

                    * 松田亜世自主制作CD「Acoustic Live 第一集」収録曲 *

「この空の下」 松田 亜世 2001. 3.23 2001. 3.26

 「生」と「死」、これは私たちが避けられない、究極の孤独だ。そして、人生の中でも、何かに迷う時、自分を問い詰める時、「孤独」に陥る。それは、愛する人に出会ったときの感情に重なる。一つになりたくて、なれなくて・・・。やがて、自らの「孤独」という名の化け物に気がつくのだ。
 「孤独」は力に変わる、と僕は信じている。人とのつながりの大切さも、優しさすら、そこに還元されるのだと思う。
 ただし、「孤独」は恐い。元来淋しがり屋の人間だから、なおさらである。だからあなたに会いたくて・・・。そして何かを求めるのだ。そう、包まれていたいのだ。

 「孤独」から「優しさ」は生まれる。そう、思って止まない。

「今宵、雨の中」 松田 亜世 2002. 7. 5 2002. 8. 1

 僕の歌の中でも最も哀しい響きを持つナンバーの一つ。
 一期一会の出会いと別れの中で、別れ、そして失って初めて気づく「愛」があったりする。もっと早く気付けばよかったと、誰しもが後悔する。もっと素直になれればよかったと、涙と雨で霞んだ視線の向こう側、過ぎ去りし日々が浮かんでは消える。
 息も詰まる別れの瞬間。僕はそこから多くを学び、感じた。

                    * 松田亜世自主制作CD「Acoustic Live 第一集」収録曲 *

 ©2001-2007 Asei Matsuda